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史跡と伝説をたずねて(その4) 伝説の洞窟


 洞窟の入り口は岩壁に沿って横向きであるため、正面からは分かりにくいが、中は大きな空間が展開され、その洞穴の奥の方に高さニメートル位、横も同じ位いの木製のほこらが安置されてあった。

 多分この洞穴の空間に合わせて設計製作されたものを、洞穴に搬入し、組み立てたものと思われる。

 ほこらは小さな神殿風で精巧に造られてあった。木材は上質と思われるものを使用し、色彩は施されず白っぽい木肌が神聖さをさらに高め、そのため洞穴の空間は一層神々しさと霊場を感じさせる雰囲気を漂わせていた。

 洞穴に入ると乾燥した砂の感触が心地よく伝わってくるものの、近寄りがたい厳かな雰囲気が感じられ一歩、二歩、歩くのも慎重な思いであった。

 しかし、その間、俗世間のことを忘れ、一瞬浄化されるような思いをしたほどである。普通洞窟の中はたいてい湿気の多いところであるが、そこは湿気がなく神聖な空間を感じさせるところであった。

 洞窟は岩山の中腹にあるにもかかわらず、浜辺を想起させるような砂が深々とあること自体考えてみれば不思議である。

 そこに砂があることは反面きわめて自然に感じられ、不思議には思えない。それは砂が清楚な感じと心地よい雰囲気をかもし出し、聖なる空間へと印象を高めているためなのかも知れない。島には砂丘と呼ばれる丘もあるので、たぶん自然によるものであろう。

 天井の高さは12メートルもあるという空間は「大昔、神がこの洞穴にかくれたので籠屋洞窟と呼ばれるようになった」と伝えられている。





史跡と伝説をたずねて(その3) 天の岩戸伝説


 佐銘川大主は佐敷村で大城按司の娘を妻にむかえ、長男をもうけたのが苗代大親で尚巴志の父に当たる人と伝えられている。
 
 したがって尚巴志の祖先が伊平屋島出身といっても屋藏大主一代きりで、その前は大里按司(後の南山王)が家元であった。       

 今回、伊平屋島に行くまでは、第一尚氏王統の祖先の史蹟を見学することに関心を持っていた。そのため他の史蹟にはそれほど興味はなかった。

 しかし、籠屋(くまや)洞窟の前に立ち、天の岩戸伝説のことを想像すると、籠屋洞窟が伊平屋島では何故、天の岩戸伝説と云われるようになったのか、そのことについての興味も急に強くなってきた。 
   
 伊平屋島の天の岩戸伝説は、徳川時代の学者藤井貞幹が、伊平屋島にアマミ嶽という天孫降臨嶽があることを聞き、天の岩戸伝説でいうところの高天原の天孫降臨の地は、伊平屋の天孫嶽と推定し「神武天皇は伊平屋で生まれ、そこから東征に上がった。」との内容の「衝口発」という著書を発表し、同じ徳川時代の学者本居宣長を憤慨させたと云われている。
                        
 伊平屋島にこのような伝説の洞窟があることは知っていたが、単なる洞窟というイメージだけであった。しかし、実際に来て見ると雄大にそそり立つ岩壁は、何千年も昔から、そのまま現在まで伝わってきたとは思えないほど新鮮な色彩を放っていた。

 岩山を垂直に削ったかのような岩肌の色は、薄茶色と灰色が交ざって海岸近くでそびえ、下から見上げると岩山全体が神秘的な洞窟を内包し、霊場的に造形するために用意されたかのような感じさえした。





史跡と伝説をたずねて(その2) 尚巴志の祖先


 伊平屋島では尚巴志の祖父の佐銘川大主(うふぬし)が生まれた屋敷跡を見るのを期待していたが、そこは道幅が狭くバスが通れないということで通過し、佐銘川大主の父親の屋藏大主の墓を見学した。

伊平屋観光ガイドマップから12 屋蔵墓をクリック。

 尚巴志王統の系図によると屋藏大主というのは、今から七百年位前の人物である。当時島尻では後の南山王に当たる大里按司のころ、兄弟間で争いがあり、上与座按司は兄の大里按司に殺害されるという事件があった。

 上与座按司の子は身の危険を恐れて名を隠し伊平屋島の我喜屋に逃れ、そこで我喜屋の神職阿部加那志を妻にむかえた。

 彼は耕作に励み屋藏大主になったと伝えられている。
 
 伝説によると屋藏大主は伊平屋でよく働き、穀物の貯蔵は増え、飢饉には島人に分け与え、屋藏大主と称されるようになり、長男の佐銘川大主を伊是名城主にした。

 ところが佐銘川大主が十六歳のとき屋藏大主は死亡し、まもなく母も亡くなると島人は佐銘川大主の穀倉を襲う計画があったと伝えられている。

 そのことを聞いた佐銘川大主は危険を察して伊平屋島から追われるように逃げて、父の故郷、大里に近い佐敷に行き、そこで定住した。




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