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史跡と伝説をたずねて(その10) 信仰の足跡


 金丸の祖先について、琉球古代城主を伝える天孫氏二十五世の子孫の系統によると、二十五世思金松兼王の六男に当たる今帰仁王子の子孫であることが系図では伝えられている。

 思金松兼王が利勇に滅ぼされると、六男の今帰仁王子は危険を恐れて今帰仁間切の具志堅に逃げた。

 しかし、間もなく今帰仁城に戻ったものの、また、その後政変のため伊平屋間切(伊是名)に逃げ、伊平屋大主となり、その系統が伊平屋里主で金丸の父、後の尚稷(しょく)ということが伝えられている。   

 利勇は王位を奪取したが、間もなく舜天に滅ぼされているから、舜天が即位した一千百八七年から、金丸が生まれた千四百十五年までの二百八二年間、金丸の祖先は伊平屋と伊是名を含めた旧伊平屋に居たことが推測される。
                
 ところで第一尚氏王統の祖、屋藏大主と、金丸の祖、思金松兼王の六男今帰仁王子は身の危険が迫ったとき、なぜ旧伊平屋島に逃れたのか。そこにも不思議な共通点があることも確かである。古琉球の人には身の危険が生じたときに、伝説の島旧伊平屋島に神の加護を求める何かがあったのだろうか。
                     
 また、斎場御嶽はアマミキヨゆかりの地、久高島へのお通しお嶽としての霊場とされいたように、もしかしたら伊是名の天城や、伊平屋の籠屋洞窟なども、天孫降臨の地アマミ嶽と伝えられるように、北から南下してきた古代の人々にとっては、お通しお嶽ではなかったかと思われてきた。
 
 琉球開闢伝説によると「一番に国頭に辺土の安須森(あすもり)、次に今帰仁のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩(やぶさ)の浦原、次に玉城アマツツ、次に久高コバウ森、次に首里森、真玉森」と伝えられていることは、古代の人々は北から南下してきた足跡を信仰の面でも残していたように思われる。
(完)




史跡と伝説をたずねて(その9) 旧伊平屋


 旧伊平屋は伊平屋島と伊是名島の総称であった。
 
 そこから第一、第二尚氏の王統がどうして出たかということについて、旅の案内役を務めた講師の名嘉正八郎氏は、「大きな島、八重山や宮古島から琉球国の支配者が出ないで、なぜ旧伊平屋島のような田舎から第一、第二尚氏の系統が出現したかということは、沖縄の文化は南からの影響というよりも、主として北の影響を受けた。つまり西九州との関係が深かったと考えられる。」と説明していた。

 さらに「旧伊平屋島は沖縄本島の表玄関であった」と想定し、旧伊平屋の具志川島の貝塚から弥生系土器や奄美系土器などが多数出土していること。

 そして伊江島の具志原貝塚からの弥生系土器や、恩納村熱田貝塚からは長崎、佐賀両県産の石鍋が出土していることなどを挙げ、「西九州との往来が盛んであったということは、表玄関旧伊平屋に、土器文化だけでなく農耕文化、鉄器文化などの、つねに新しい文化を身につけた人が来て、あるいは帰り、あるいは定着した。」と説明していた。    

 また、第一尚氏と第二尚氏とも旧伊平屋から追われたことについて同氏は、「金丸の叔父や叔母が旧伊平屋島伊是名村と仲田村に実在していたということは、少なくとも二、三代先が旧伊平屋島に定住していたことを意味する。

 しかし、第一尚氏系統の佐銘川大主が旧伊平屋を追い出され、第二尚氏の始祖、金丸もまた同じく伊是名島諸見を追い出されたことは、両氏とも本来土着の百姓ではなく、なじまない『何か』を秘めていたのではなかろうか。」と話していた。






史跡と伝説をたずねて(その8) 国王になった金丸の過去


 金丸の出生地に、一人では動かすことのできない大きな石が一個あったということは何故か印象に残る。

 尚巴志の出生地、佐敷の苗代大親の庭にも月代(つきしろ)という石があって苗代大親は、その月代の石を信仰していたというから、屋敷に大きな石があったということは、どこか共通している。

 尚巴志が誕生したとき、おもろ詩人が月代の石に向かって尚巴志の誕生を祝福し、讃えたという「おもろ」がある。

 また、最後の北山王、攀安知(はんあんち)は今帰仁城が落城したとき、信仰していた霊石を千代金丸で十文字に切り付け、最期を遂げたと伝えられていることからみても、当時、霊石を信仰していたことがうかがえる。 
  
 金丸の生誕地の次は、金丸が島を追い出される元になった逆田(さかた)を見学した。そこは湧き水が出るすぐ下にあり、段々畑のようになっているところであった。

 田圃には稲が青々と生長していた。私が見学した頃、小学生の体験学習用に利用されているとのことであった。

 金丸が青年のころかんばつで島の人たちの田圃はみんな水がなくなり、水田ができなくなっても金丸の水田だけは、水がなくなるこはなかったようだ。

 そのため村人から水泥棒と怪しまれ、結局島を追われて妻と弟を連れて国頭に逃れたと云われている。

 国頭の宜名間や奥間を転々とした後、越来王子、尚泰久に能力を認められ、尚思達王の下で家来赤頭(あくかべ)に推挙され、その後、尚泰久が王位に就くと重臣に抜擢され、尚徳王のときクーデターで国王となり、尚円王と名乗って第二尚氏の祖となった人物である。






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