カスタム検索

沖縄と琉球 (その8) 沖縄の原風景


 遣唐使船が南島路を停止されると、沖縄に関する記録は途絶えていた。だが、空白の歴史のなかにも琉球の名は、中国の史書などで時おり見られている。

 琉球という場合、必ずしも台湾だけではなく、ときには沖縄であった場合もあろう。唐の時代、閩(びん)人の周遇という人が浙から閩(びん) に帰る途中、海上で悪風に遭い、琉球に漂流したときの様子が、松本雅明著「沖縄の歴史と文化」で、次の通り述べられている。

 「また流 国(流求)を経るに、その国人は幺麼(ようま)(短小)で、一概(ひとし)くみな麻布を服して礼あり、競って食物をもって釘や鉄と易(か)えんことを求め、新羅(しらぎ)の客もまた、半ばその語を訳していう、この国は華人が漂(ただよ)い浮かびここに至るに遇えば、災禍あるを慮う。」と答えたという。 
        
 漂流者には、食物を与え、鉄や釘と交換していたことや、また、皆、麻の布を着ていたが礼儀正しかったことなどは、沖縄の素朴で穏やかな横社会の原風景を見ているような気がする。

 それに、新羅の人が言葉を分かったというから、朝鮮とは、貝塚時代から交流があったことも、うかがえる。

 要するに琉球国とは、食人国として恐れられていた琉球国でないことは明らかである。




沖縄と琉球 (その7) 琉球と南島


 楊祥が琉球に侵攻する際、海事に詳しい部下の一人が「しばらく澎湖島に駐屯し、水勢地理を観察して、それから兵を進めても、遅くはない」と進言したという。

 つまり「澎湖諸島は琉球と相対す」とか琉球と澎湖諸島は、「煙火を互いに望む」と中国の史書で云われているほど、琉球は澎湖島の近くにあげられている。その琉球とは台湾である。

 また、その後、1297年、英祖王のころ、張浩と張進が琉球に遠征し、島民百三十人を捕虜にして帰ったといわれている。その琉球も、これまでの状況や、範囲を越さない限り、台湾と解するのが自然であろう。
         
 遣唐使の時代、台湾は琉球と呼ばれ、沖縄諸島は南島と総称されていた。阿児奈波の名が見えるのは、鑑真の東征伝からであった。

 そして、沖縄の島々は、遣唐使船が南島路を通っていたころ、歴史に島々の名前が散見され、また、大和との往来の様子もうかがえる。

 だが、遣唐使船が南島路を停止されると、沖縄に関する記録は途絶え、舜天が即位するまで、歴史の空白は続く。





沖縄と琉球 (その6) 遣唐使時代・南島の島々


 智証大師伝の流求よりも百年前に、鑑真が遣唐使一行と共に、沖縄に寄港しているので、智証大師伝の流求は、沖縄でないことが分かる。

 遣唐使の時代、南島の島々は、遣唐使船が寄港した場合、水や食料を補給しやすいように、島々に島の名前や、港のある場所を明記した標木を立て、帰国の目印にしていた。

 そして、南島の島々からは大和朝廷に南方の方物を献上し、多くの島人が位を受けていた。したがって、大和の人から恐れられていた食人国の琉球でないことは明らかである。

 智証大師伝よりも、四七年前の八◯四年、空海が唐に行くとき、「唐の観察使に贈るの書」で、「凱風(南風)朝に扇いでは、肝を耽羅の狼心に推(くだ)き、北風夕に発(おこ)りては肝を留求の虎性に失ふ」という留求も沖縄(琉球)でないことが分かる。

 台湾を琉球と称していたことが明らかになってくると、英祖王の時代(一二九二年)、元の楊祥が軍を率いて琉球に攻めてきたとき、琉球は果敢に戦ったので、元軍は、そのまま引き上げて帰ったといわれている。

 その琉球は、従来、沖縄と思われてきたが、沖縄でなく台湾であることが明らかになってきた。 





にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。