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まとめ


尚巴志は21歳で佐敷按司として、父、苗代大親から佐敷間切(村)の経営を任され、与那原、馬天の両港を交易港として、中山制覇の足がかりをつくった。

当時の有力者が行ったように巴志も農具や生産用具等の鉄器類の輸入につとめ、佐敷領民から信望を集め、31歳で島添大里を併合し、中山制覇の足がかりを築いた。

そして3年後には中山王武寧を打倒し、中山に王統を打ち立てた。

それから10年後に北山を討伐し、さらに南山を平定し、百有余年続いた三山対立の世に終止符をうち、琉球国を統一した英傑であった。

巴志は察度の開いた大陸との交易を受け継ぎ、交易立国を国是とし、明国との朝貢を拡大するため、日本、朝鮮、南方諸国との交易を推進し、大交易時代の基礎をつくったものである。

交易をスムーズに展開するためにも那覇港を整備し、交易物資を保管する御物城や硫黄城を築き、これらを担当する鎖側といわれる役職を設け交易物資を管理させるようになったのも巴志の代からであった。

そして特に首里城を中心とした王城公園の造営等、王都の整備を行い、「守礼の邦」づくりを目標とした。

特に巴志は国相懐機の影響を受け、道教に帰依し、領民の平安、五穀豊穣、航海安全などを祈願する天妃宮などの諸堂廟を建て祈願所とした。

そして明国皇帝の使者として度々来島した柴山の申し出による寺社仏閣建立を全面的に支援し、仏教文化高揚をはかった。

巴志の死後、後継の国王は尚忠、尚思達、尚金福、尚泰久と替わり、そして尚徳のとき、第二尚氏革命が勃発し、尚巴志王統(第一尚氏)は7代、64年で滅びた。

尚巴志は三山対立する世に、どのような闘いをやり、国造りを果たしてきたのか、英傑の雄姿をとらえてみたいと試みたが、思料不足のため思うようにできなかった。

しかし尚巴志王統の興亡は、琉球歴史のかで大きな発展を遂げてきたこと理解できれば幸いである。




第二尚氏王統へ世替わり


北山監守を重視した金丸(尚円王)は、重臣のなかから輪番で北山監守に当たらせた。だが、その後、尚真王のとき、王子の尚昭威が北山監守に命じられ、それ以後、王家一族の世襲となった。

反尚徳派の王城革命は、王府の支配階級の交替だけでなく、地方の主要な城においても政変の波は襲っていた。

そして革命の大役を果たした安里大親は、泊地頭職に任じれた。泊地頭職は王府のひざ元を管理する重要な役職であった。

このように王城革命で尚徳王の息のかかったものは全て一掃され、尚巴志王統一族は各地に離散して落ち延びて行った。

この革命の際、尚巴志を祀ってあった天山陵も革命党によって焼き尽くされた。

尚巴志の遺骨は、天山陵が焼かれる前に、遺臣らによって秘かに持ち出され、読谷村伊良皆の森に移された。そこに尚巴志の墓が隠されるように森の中にあることは、現在でもあまり知られていない。

かつて三山対立する世に、佐敷から風雲児の如く台頭し、中山を制覇し、北山、南山を平定、三山統一を成し遂げ、大交易時代の基礎をつくった偉大な国王であった。

その巴志の業績も、巴志が没し、30年の間に、世はかくも大きく変わったものである。

王城革命の背景は単に尚徳に対する不満だけでなく、民心の混乱という社会的な要因もあったはずである。

だとすれば、何があったのか、阿麻和利の乱から9年、人々の記憶には、生々しさが残っていたに違いない。

護佐丸は謀反を企らんだという理由で討伐された。しかし、実際は忠臣であったということが、人々に知られるようになったのは、尚徳の代であった。だとすれば、王府に対する不信や不満は高まるものがあったのではないだろうか。

王城革命は単なる尚徳の失政だけが原因でなく、阿麻和利の乱で民心の混乱をまねく社会的要因があったことも考えられる。

そして第二尚氏の王統は、廃藩置県まで約400年続いたのである。



大城賢雄の最期


クーデターで尚巴志王統一族と、家臣は首里から追われ、島尻の玉城や、中部の読谷山、北部の今帰仁方面へ落ち延びて行った。

泰久の第一王子・安次富加那橋は玉城の安次冨城に逃れた。第二王子三津葉多武喜は島尻当山の大川城に。第四王子八幡加那志は仲栄真城に身を隠したが、彼らには危害は及ばなかった。

越来親方大城賢雄は、同志と糾合して第一尚氏再興をめざし、安谷屋按司、伊波按司等の今帰仁系統の按司と北谷間切に「国直城」築城に着手し、第二尚氏打倒の機をうかがっていた。

国直城は国を立て直す意味であった。「世直し」を目的として築城をめざしたが、しかし準備が整わなぬうち、新王朝軍に攻められ多数の犠牲者を出して、目的を果たすことなく崩壊した。

賢雄は越来城に退却したものの、王朝軍に攻められ、城を放棄して知花城の洞窟に立てこもって最後まで抗戦を続けた。

だが、王朝軍に包囲されたため、洞窟で自害して最期を遂げた。

その洞窟は墓所として残っており、文化財として保存されている。

越来城を占拠した金丸は、城主に弟の宣威を入れ、また、北山城で北山監守をしていた巴志の第三子・具志頭王子を北山城から追い出し、金丸配下でかためた。


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