カスタム検索

勝連城攻略 賢雄 首里城に凱旋


戦闘2日目、賢雄は軍を二手に分け、副将の賢休と賢膺に命じ、二カ所から攻めさせた。

城内の様子に詳しい賢雄は、女装のいでたちで東側奥、大奥近くの城壁を乗り越え、混乱する城内奥から阿麻和利軍団の陣中に潜入した。

城壁階段から指揮する阿麻和利を見かけると大声で、

「逆臣阿麻和利、王命により成敗す」と刀を振り上げて近づいた。

「何を無礼者」阿麻和利は必死の形相で立ち向かったが、賢雄の一撃で打ち倒された。

賢雄は城壁から阿麻和利を討ち取った証拠を見せて全軍に告げた。

中山軍は怒濤の如く襲いかかった。城主を失った城内は敗走する者、降伏する者で混乱し、勝連軍団の抵抗もそれまでであった。

阿麻和利の乱の戦闘は多数の死傷者を出し、2日間の戦闘で城は陥落した。

王命を奉じ阿麻和利追討の大役を果たした賢雄は首里城に凱旋した。

尚泰久王の危機を救った英雄として、国王をはじめ人々から絶大な賞賛を受け、その行賞として賢雄は、具志川、美里、越来の3間切の総地頭職に任命され、越来親方として越来城を賜り紫冠が授けられた。

その後、賢雄は王女、百十踏揚を正室にむかえ諸按司の羨望の的となり、また人々から敬慕され越来按司大城親方として、また俗称鬼大城とも呼ばれ、英雄として尊称されていた。



勝連城攻防で激戦


勝連城は勝連半島の高台の頂上にあり、城の周りは急傾斜、または断崖絶壁になっており、そそり立つ城壁は山城の感を呈している。

城壁は陽光を浴びて、さん然と輝き、あたりを睥睨(へいげい)しているかの如くの威容を感じさせていた。

阿麻和利は勝連の世の主として、その威光は勝連だけでなく、周辺にも及び、その勢力は、かつて護佐丸と並び地方按司最強であった。

居城である勝連城は三山対立抗争にも巻き込まれず、勝連の世の主の居城として栄えてきた。勝連経営の拠点であった。

城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸等数棟あり、阿麻和利の勢いで勝連は大和の鎌倉に例えて謳歌されるほどであった。

しかし阿麻和利が首里城に攻め寄せたことから事態は急変した。国王軍の猛反撃を受け、ついに勝連城に敗走した阿麻和利は、中山軍の攻撃に備えての籠城である。

首里王城を攻め、泰久王の首を狙ったのだから、それだけの覚悟はあったのだろう。

勝連城に籠城した阿麻和利軍団は、押し寄せて来る国王軍の攻撃に死守の覚悟で、決戦のときを待っていた。

国王軍を率いる賢雄は、越来城で一泊し、翌日勝連城に向かった。その際、越来城主に参加協力を呼びかけたが、越来城主は妻がお産の後であるからという理由で、参加を断ったといわれている。

賢雄の率いる国王軍と、阿麻和利の勝連軍団との勝連戦争は、まれにみる激戦となっていた。

国王軍の攻撃に対し、城壁から矢、石等が雨の如く浴びせられ、城門前での戦闘は混戦し激烈を極めていた。

阿麻和利軍団の総大将には、屋慶名赤と呼ばれる剛の者がいた。

彼を中心とした一隊は城を出て抗戦し、中山軍が突入してくれば城内に退却し、城壁から石、矢で反撃し、中山軍を手こずらせていた。

また勝連の四天王といわれた赤舛、真呉、白先、氷角の4武将は賢雄の首を狙って、混戦にまぎれて襲ってきた。

だが、勝連の総大将・屋慶名赤が、賢雄の長槍で胴をくし刺しにされたのを見た四人は、賢雄の立ち居振る舞いに気後れしたのか、慌てて城内に逃げ込み、場外に出ることは無かった。

賢雄が鬼大城といわれるようになったのは、そのときの武勇ぶりを賞賛してのことであろう。

かつて尚巴志は三山を制覇する前、巴志のことを「鬼鷲」に例えられて賞賛されていた。

それと同様に鬼大城も美称辞といわれ立派な様子を表現したものであった。



総大将 賢雄の生い立ち


賢雄は具志川間切喜屋武城の城主・栄野比大屋子の長男であった。

喜屋武城は栄野比大屋子の祖父・安慶名大川按司の四男、喜屋武按司のころからの城で、別名、火打城とも呼ばれて栄えていた。

その後、喜屋武子を経て栄野比大屋子の代になるとかつての勢いはなく、大屋子が早世すると賢雄の母は城を維持できなくなり、賢雄とその下の幼い弟、賢休、賢膺を連れ、実家の美里間切知花村大城に帰り、三兄弟をそこで育てた。

賢雄は童名・松金と呼ばれいたが、成長して大城賢雄と名のり、越来城の尚泰久王子に仕えて以来の家臣であった。

国王に即位した尚泰久王の家臣に、知者金丸と武勇無比の大城賢雄が仕えており、両者は文武双璧といわれる重臣であったといえる。

そして、賢雄は国王軍を率いて、勝連阿麻和利討伐に向かった。国王の三巴の紋章の軍旗をなびかせての出陣であった。


にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。