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尚徳王(その3) 朝鮮から大蔵経輸入


尚徳王の進貢の使者が将軍義政の寝殿の前庭で謁見を終え、退出のとき、総門外で礼砲を二発打ち鳴らし、見物の京都の人々を驚かせたことは広く知られたところである。

また、尚徳は父泰久のころから念願であった大蔵経を朝鮮からもたらした。

これは経典全集といわれる貴重な大蔵経で、当時、日本の各寺院が最も欲しがっていたというが、どこへも与えなかったものを、琉球へ惜し気もなく贈られたものである。

大蔵経は二回にわたって朝鮮から輸入された。

金剛経、起信論、円教経、四教儀、心経、翻訳名義が最初に届いた。

1467年8月には、法華経、大悲心経、永嘉集、成道記、四教儀、円覚経、翻訳名義、楞伽経疎、阿弥陀経疎、維摩経宗要、観無量寿経義記、道徳経、金剛経五家解、楞厳義海、法数、涵虚堂円覚経、金剛経治文宗経、楞厳会解、高峰和尚禅要、楞伽経、真実珠集、碧厳録、水陸文、維摩諸経、法鏡論、真草千字文、証道歌、心経、紫芝歌、八景詩、浣花流水詩、東西銘、赤壁賦、趙学士、蘭亭記、王義之蘭亭記など各二部ずつ35種目70部の書籍が贈られた。

仏教書の外、漢文書なども入っており、泰久がめざした学術振興は、尚徳の代に結実したといえる。

万国津梁の鐘銘に「三韓の秀を鍾め」といわれるのは、このような仏教文化の大蔵経などを意味していたのかも知れない。

泰久のころから少しずつ輸入していたのが、尚徳の代に大量に輸入されたものであった。

琉球王国と朝鮮とは親密な友好国として、察度王の代から交易を通し、友好親善を続けてきたこと。また倭寇に襲われた朝鮮人を救助し、本国に送還したりして、琉球王国は平和を尊び、文化を愛する王国であることが朝鮮でも認められたためであろう。

尚徳は父泰久が力を注いだ寺院の造営も引き継ぎ、天界寺に大宝殿を増築し、また喜界島征伐の出陣の蔡、安里村で飛ぶ鳥を撃ち落とした森に、喜界島征伐戦勝を記念し、安里八幡宮を建て弓矢、甲冑などを保存した。

このように敏腕な青年国王は、外交、交易、内政において意欲的であった。

南方交易では従来シャムとの交易が主であったが、尚徳はマラッカに使者を派遣し、繁栄していたマラッカとの交易に道を開き、南はマラッカ、シャム、北は日本、朝鮮へと琉球商船は中国交易を中心に大交易時代の主役的役割を果たしていたのである。



尚徳王(その2) 清水に感動


尚徳王は喜界島を制圧すると、島の首長を打ち首にして、農民のなかから新たに首長が任命された。

3月13日、尚徳は凱旋し、泊港に帰港した。

諸臣男女盛大な出迎えであった。

そのとき、海上で水は思うように使えないので、一婦人が「この清水で体を清めては…」と用意してくれた。そのことに尚徳はとても感動したようである。

この篤志を賞して、婦人の夫・呉弘肇(泊里主宗重)は泊地頭職に、婦人は泊大阿母潮花司(とまりおおあもしゅばなつかさ)という神職に任命され田地が与えられた。

泊地頭職は泊村の外、奄美大島、徳之島、喜界島、与論島、永良部島等、大島諸島の管理であり、設置されたのはこのときが初めであった。

尚徳は喜界島征伐で奄美大島に対し、琉球国王の国威を示したものであった。

この喜界島征伐が行われた年の夏、足利将軍に入貢したので、琉球国王の存在感を示したともいえる。




尚徳王 喜界島征伐 (その1)


尚徳王は即位5年目、喜界島征伐を行った。

大島諸島の奄美大島、徳之島、永良部島、与論島などは琉球王国へ恭順の意を表し、入貢をしていた。

だが、大島諸島のなかでも喜界島だけは、尚泰久王のころから入貢を拒否し、国王の役人に対しても攻撃的で、王命に背いていたという。

尚徳王は大島諸島に国威を示すためにも放置できぬと判断し、遂に自ら2000の軍兵を率いて征伐に向かった。

国王が自ら軍を率いて討伐に向かうのは、尚巴志王以来のことであった。

尚巴志の再来といわれたゆえんであろうか。

1466年2月25日、尚徳王は2000の軍を率いて首里城を出陣した。

泊港に向かう途中、安里村にさしかかったときのことである。

樹木の間から飛び立つ小鳥を見た尚徳は弓を取り出し、天を仰ぎ「若し吾喜界を平ぐるを得ば、一矢能く鳥を射落さん」と祈り、弓を引いた。

誰もが固唾をのんで見守るなか、飛ぶ鳥を見事、撃ち落としたのであった。

どよめきと指笛、喝采が湧き上がり、出陣の前途を祝福するものとして王府軍は全員喜び合ったと伝えられている。

軍勢は50余艘の船団に分乗し、2月25日泊港を出港、28日、喜界島に到着。

喜界島では港の入口に柵を設け、船の入港が容易に出来ないように構え、近づくと応戦してきたため国王軍は上陸できず、戦況は一進一退を繰り返していた。

3月5日、王府軍は霧深い闇夜、島の裏側から攻め込むかの如く小舟で松明をつけ移動させ、喜界島の主力がそれにつられ移動したところ、正面から一斉に攻め込み、上陸し、島を一気に制圧したものであった。


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