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尚泰久王 即位


志魯・布里の乱で尚巴志が築いた中山王府は崩壊の危機に直面していた。

王府の危機を側面から支えたのは実力者・護佐丸だった。

護佐丸は読谷按司として交易で財力を蓄え、巴志没後、中城の地に中城城を築城し、その富は中山王府と並ぶほどの勢いであった。

護佐丸は巴志が三山統一のころから中山の盟友である。

そして護佐丸の娘は、巴志の七男・尚泰久(当時、越来王子)の妃であった。

中山王府の指導力は低下していた。そのうえ志魯・布里の乱で灰燼と化した王府再建は、護佐丸の支援と助力が大であったはずである。

国王には尚泰久が押されて即位した。

護佐丸の存在が背後で影響を与えたことは確かであろう。



志魯・布里の乱


尚巴志没後、14年の間に尚忠、、尚思達、尚金福と三名の国王が即位したが、頻繁な国王交代は、王府財政の逼迫を招くだけでなく、人望を失い、尚巴志王統の崩壊を招く危険をはらんでいた。

冊封は国王にとって一世一代の大典であり、莫大な費用のともなう行事である。それが4、5年毎に行われたのだから、王府の支配体制にも影響がでたことであろう。

長年国相を勤めてきた懐機も亡く、中山王府は王位をめぐって志魯と叔父の布里が対立し、ついに肉親同士争うという志魯・布里の乱が起こった。

志魯は尚金福の嫡子であったため、世継ぎとして王位につこうとしたところ、

布里は「我れは尚巴志王の子に係る、よろしく父兄の業を承けて立つ」という。

志魯は怒り「汝は王弟にして世子に非ず、なんぞ兄王の業を奪うや」と反論し、

互いに兵を発して、両軍の争いが始まった。

王府は両派に分かれて混戦となり、国庫は焼かれ城内は灰燼と化し、明国朝廷から賜った鍍金銀印も鎔壊したという程の猛火だった。

志魯が国庫に放火し炎上させたため、布里が怒って志魯を滅ぼし、心身とも傷ついた布里は、首里城から逃げ、島尻当山に隠棲して晩年を過ごした。

布里は当山に落ちつくまで方々を逃げ隠れしたようだ。

先ず、大里村の冨名腰村、前川村、冨里村などで身を隠していたが、危険であったためか、伊平屋島に渡り、そこで田名大主の二女をめとり、一男を生む。

その後、世が落ち着いてきたので、また島尻に戻り、当山で晩年を過ごしたと伝えられている。



国相懐機の晩年


懐機は長虹堤工事完成まで、那覇の久茂地に屋敷を構えて工事の指揮をしていた。

信心深い懐機は長虹堤の難工事を無事進めるため、屋敷に「お伊勢さま」と呼ばれる「天照大神」を祭って毎日工事の進行を祈っていた、といわれている。

長虹堤完成後、久茂地の屋敷は「お伊勢さま」と「長寿寺」に分け与え、晩年は首里の丘、尚巴志が眠る天山陵近くに屋敷を移し、そこで過ごした。

長虹堤完成で、天山陵の尚巴志へ完成報告をしたのではないだろうか。
懐機は間もなく、同所で生涯を閉じている。

懐機は尚思紹、尚巴志、尚忠、尚思達、尚金福、各王の国相として尽くしてきた政治顧問であった。

巴志の三山統一と文化国家づくりに多大な影響を与え、導いてきた名国相であった。

尚金福王の業績は、長虹堤の完成、室町幕府への入貢、朝廷への献金等。

在位、4年、56歳で没した。

王妃は具志頭按司の姫、妾は城間村の阿護母志良礼。

嫡子は長男・志魯王子、次男・城間按司の二人であった。



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