カスタム検索

尚巴志王妃と夫人


昔の国王夫人には室、妃、妻、妾などがいた。特に戦国時代は有力者を見方に引き入れるため、政略結婚が行われていたためであろうか。巴志の時代も例外ではなかった。

巴志は北山討伐にあたって周辺の按司を見方にするため、名門伊波按司の娘を王妃にむかえたと伝えられている。

王妃との間の子が七男、尚泰久といわれている。

第一夫人は美里伊波按司の娘

第二夫人、南山高嶺按司の娘

妻、読谷間切座喜味の祝女

妾、読谷間切喜名東松田の祝女

王妃や夫人との間に八男一女がうまれている。

尚巴志の墓は首里の小高い丘に天山陵として造られた。

国相懐機は尚巴志の薨去を道教の本山、竜虎山の天師に伝え、天山陵に葬ったことを報告した。





尚巴志 天命を果たす


三山対立する世は終わった。だが、新たな時代にふさわしく、精神文化高揚をはかり、民心の平安と文化国家建設を目ざし、巴志による琉球王国づくりは休まることがなかった。

那覇の久米村には外国の高官を国賓として迎えるための天使館や迎恩亭を建て。

首里城を本格的に造り替え、王城公園に見られるように王都として整備した。

琉球文化黄金期到来の基礎を構築した。

巴志が島添大里を併呑したのは31歳のときであった。

3年後に中山制覇、10年後の41歳のとき北山討伐。

それから13年後、南山を平定、琉球王国を統一した傑出した武将であった。

百年余り続いた三山時代は風雲児・巴志によって統一された。

南山の島尻大里を併呑してから34年、心身とも休まる間もなく、大業を次々と成し遂げてきた。

巴志は1439年4月20日、68歳をもって天命を果たし、波乱に満ちた生涯に幕を閉じた。




琉球の礼法普及に貢献した柴山


文化の高揚に意欲的であった巴志は、柴山の勧める禅宗による学術文化の振興や、礼法の普及にも積極的であった。

柴山は明国皇帝使者として度々来島し、使者の役目を果たすだけでなく、南山討伐の2年後の来島に際しては、私費で大安禅寺を建立した。

さらに3年後の来島には、千仏閣を建て禅宗の普及につくし、沖縄の学術文化振興の推進に貢献した人物であった。

柴山の来島は次とおり。

1425年、冊封使柴山来島

1427年、柴山来島皮弁官服下賜

1428年、同上 「中山」の額献上 

1430年、柴山来島尚姓賜う

1431年、同上 大安禅寺建立

1432年、同上 巴志を仲介して足利義教に親書を依頼

1433年、千仏閣を建立

柴山は7度来島している。 

巴志は柴山の申し出による寺社仏閣建立に積極的に援助したことであろう。



にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。