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琉球は朝鮮でも大国並の優遇


巴志のもとへ足利義教将軍から返事が送られてきたのは、かなり後であった。

「文くわいく見申候しん上の物たしかにうけとり候ぬめでたく候
   永享11年御印判
りゅうきゅう国のよのぬしへ」

御印判とは義教公の御印といわれている。

明国皇帝は国交のなかった室町幕府へ、巴志を通して国交再開を求めて仲介を依頼してきたほどである。

ところで、琉球は朝鮮でも大国並に優遇を受けていた。

察度王のころから琉球の使者はたびたび朝鮮を訪問し、南方産の品々を献上したり、倭寇に襲撃され漂流している朝鮮人を救助し、本国に送り返したりしていたこともあって、朝鮮を訪れた琉球国の使者は優遇されていた。

そのことに目をつけた博多商人や豪族のなかには、入れ替わり立ち替わり朝鮮に押しかけて行き、なかには琉球の使者といつわって皇帝に謁見するのもいたようである。

朝鮮では室町幕府の使者に対しては、宿駅の亭長が京城まで順送りとして使者を送ったが、琉球からの使者に対しては、王府からの役人が直接出迎えて京城まで案内した。

このように三山を統一した尚巴志は、中国と日本の国交再開の仲介を果たしたり、足利将軍にも進貢し、琉球王国の繁栄ぶりを示し、国威高揚につとめたものである。




巴志へ 日中国交再開の仲介役


尚巴志が琉球国を統一した頃、中国は日本と国交がなかった。

明国皇帝は巴志を介して室町幕府、足利将軍に国交を開くよう仲介を依頼してきた。

巴志は使者を室町幕府へ派遣し、国交再開の仲介役を果たした。

当時の足利義教将軍は強権をほしいままにして、人々から「恐怖の世」と恐れいれられている時代だった。

各地の守護大名や豪族等は勢力争いにともなう権謀術数のかけ引きが入り乱れ、争乱の絶えない政情不安定な世であった。

中国と国交がとだえたのは遣唐使が廃止されたころからであろう。

しかし、その後、足利義満のころ(1401年)、勘合貿易が10年に1回の割で行われたことがあった。

これは当時、貿易を1回行うと寺が1つ建つ程、巨額の利益があったと伝えられている。

ところが朝貢に対し、明国皇帝からもたらされる勅書や明国の歴の使用などは、明国の属国を意味するとして、禅僧などから非難されていたため、勘合貿易は幕府財政を潤す魅力はあったが、長続きしなかった。

勘合貿易は、倭寇が船団をなして中国沿岸で海賊行為をしていたので、倭寇と区別するために勘合符を所持し、朝貢船であることを証明するものであった。




尚姓を授与された


三山を統一した巴志の偉業は明国でも評価された。巴志は南山平定の翌年、進貢に際し、三山統一がなされたことを明国皇帝に報告した。

これに対し皇帝は

「爾琉球国分かれて鼎足を為す。人民塗炭すること百有余年、此に爾が義兵復び太平に致す是朕が素意なり、今より以後、終を慎しむこと始めの如くし、永く海邦を綏じ、子孫は之を保ち欽めよ哉故に諭す」

と、功を讃え巴志に尚姓を授与した。

尚姓は覇者や高貴な人にふさわしい高尚な意味があるといわれていた。

巴志が尚巴志として尚姓を名乗ったのは、そのときからであった。

第二尚氏の祖・金丸も尚円王と名乗り、以後、明治の廃藩置県まで尚姓は王家以外使用できななかった。

巴志が尚姓を贈られたのは南山討伐の翌年であったから、父の尚思紹の尚姓は死後追認されたものであった。



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