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尚巴志  琉球国統一


中山軍が攻め寄せて来るのを見た他魯毎は、南山配下の各按司に結集を呼びかけたが、従う者はなく、静観の態度を決めていた。

民衆は、むしろ中山軍の到来を歓迎し、凱旋風景の如く沿道に集まり、歓声を上げて中山軍を迎え入れた。

他魯毎は弟の南風原按司守忠や、豊見城按司を武将としたわずかの手勢で迎え撃つべく勇ましく城を出て奮戦したが、大敗し、他魯毎は城内に敗走した。

しかし城内に入ろうとしたところ城門は閉ざされ、城壁から逆に矢をあびせられ、前後に敵を受け、捕らえられ南山王国は滅びた。

巴志はついに三山を統一し、名実ともに琉球国王となった。

巴志の弟・平田大親は、この戦で流れ矢に当たり戦死した。

平田大親は巴志の側面から手足となって大里城攻落、中山武寧打倒、北山討伐、そして今回の南山平定など、常に巴志の側面から片腕として働いてきた側近の一人であった。

巴志は三山対立時代に風雲児の如く台頭し、三山を次々と平定し、百有余年続いた三山対立時代に終止符をうち、琉球国を統一した武将であった。

そして海外諸国との交易を盛んに行い、交易立国を国是とし、琉球の繁栄をもたらす大交易時代の基礎をつくった名君であった。




中山王 尚巴志南山討伐に向かう


他魯毎は年貢を滞納する者には、兵を向け脅迫していたので、他魯毎離れは多くなるばかりであった。

それを聞いた他魯毎はますます怒って、

「賊奴巴志と相謀り乱を唱えるはことごとく誅滅せん」と怒り、
弾圧しようとして兵を集めたところ、他魯毎配下の南山領は騒然となりだした。

機をうかがっていた巴志は、1429年、中山配下の各按司を率いて、南山他魯毎討伐に立ち上がった。

南山城は大里村高嶺にあり、天孫氏時代より大里按司の城として代々伝わってきたもので、承察度の代から南山王の居城とされてきたものである。

かつて強大な王国を誇った南山城も、汪応祖没後、落城を待つ運命となっていたのである。

南山攻落に向かった中山の軍勢の規模がどの程度であったか、歴史は伝えていない。

ただ南山他魯毎の勢力は、もはや巴志の相手でないことだけは確かであった。

しかも南山城は北山城のように山城ではない。守りには弱い城である。




泉と金屏風の交換


巴志の三山統一の戦略は、周辺按司を味方に引き入れる準備工作を、充分に行なうことから始られていた。

北山討伐もそうであったし、南山の状況も同様であった。いきなり武力で攻め入ることは決してしない。

周辺の諸按司の協力をとりつけ、利益優先の準備工作を充分に行うことことから始められた。

そのことは嘉手志川と金屏風の交換という伝説でもその一端がうかがえる。

巴志が装飾の美しい金屏風を所有していたのを、他魯毎は日頃それを欲しがっていたので、巴志は金屏風と大里在の泉との交換を提案したところ、他魯毎が承諾したと伝えられている。

この泉は大里村の要地にあった。南山の農民はこの泉を利用していたのである。

巴志は、同泉の支配権を得ると、中山に従うものには利用させ、従わないものには禁じたので、農民はひそかに中山に従うようになっていた。

泉と金屏風の交換という伝説は、他魯毎の私欲と浅慮を比喩したものであったであろうが、とにかく中山の支配権がすでに南山のひざ元に及んでいたことを示すものといえた。


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