カスタム検索

勝連按司の台頭に備えて


北山討伐は終わっても残党は再起を狙っているかも知れない。北山の守りを固めないと安心ではなかったにちがいない。

護佐丸は自らの希望もあって北山監守を巴志に願い出て、認められたものであろう。

護佐丸は今帰仁城で北山監守としている間、6年の歳月をかけ座喜味城を築城した。

築城工事には世論島や沖永良部島、大島など「道の島々」からも人夫が徴用され、護佐丸の支配力は「道の島々」まで及んでいたことを示すものであった。

大島諸島は早くから勝連按司が、道の島々として支配下においてきたところである。護佐丸と勝連按司の対立、葛藤はそのころからと思われる。

護佐丸は読谷按司として早くから交易で実績があった。

一方、勝連按司は察度王以前から日本本土交易で富を得、独立領主然として勝連城を居城として勝連一帯の経営を営んでいた。

両按司の居城は中部の西海岸と東海岸にあり、腹背の位置になっていた。

そのころ北谷村の貧農の家に一人の少年がいた。彼はその日の食を求めて毎日海に出かけ漁をして過ごしている無名の少年であった。

彼は後に勝連城主・茂知月按司を討ち滅ぼし、勝連按司となった阿麻和利であった。

阿麻和利は勝連の民衆から英雄と崇められ人望も高まり、やがて護佐丸の前に大きく立ちはだかる存在であった。

護佐丸は6年の年月をかけて座喜味城を完成させた。

城壁の石垣のほとんどは山田城の城壁を取り壊し、座喜味城までリレー式で運ばせたと伝えられている。

かくして護佐丸は読谷按司として、座喜味城を居城にして交易で蓄財し、地方按司最大の勢力を誇っていた。





座喜味城築城した護佐丸


北山が討伐された後、護佐丸は北山監守として今帰仁城にとどまることになった。

護佐丸の居城山田城は、北山勢力の南下に備えた中山の前衛的支城としての役目もあった。

だが、もはやその役割もなかったといえる。

灰燼と化した北山城は立て直され、護佐丸の祖先の居城であった今帰仁城に北山監守として入ることになった護佐丸である。

中北山系の流れをくむ一族の夢が果たされたといえよう。

護佐丸の祖父の先代が今帰仁城の世の主のころ、怕尼芝に滅ぼされ、兄弟は遠く落ちのび、ある者は美里間切の洞窟に隠れ、後で周辺の農民の協力で伊波城を築いた。

また、ある者は読谷山の山田城に逃れ、機会あれば北山を討たんとして備えてきたものであった。しかし北山王国は衰えることはなかった。

時は移り、読谷按司の山田城に跡継ぎがなかったことから、兄弟の伊波按司の次男を読谷按司に迎え、その嫡子が護佐丸であった。

山田城で生まれ育った護佐丸である。読谷の地は彼を育んでくれた土地であり、近くの久良波港は読谷按司として勢力を蓄えるには都合の良い拠点であった。

山田城は久良波港近くにあり、同港を拠点に護佐丸は南方交易で富を得、勢力を張ることもできた。

しかし攀安知討伐後、北山監守として今帰仁城にとどまり、北山方面の統治を任されていた。

その間、護佐丸は山田城の経営をどうするか、長年の構想であった座喜味城築城の時期をまっていたのではないだろうか。

按司とした富を得、勢力を張るには交易こそ富強にあなる唯一の方法であった。

従来の拠点であった山田城の久良波港は次第に浅くなっており、南方交易に出かける大型船の出入りには不便であったにちがいない。

そのため久良波港に変わる長浜港に護佐丸は目をつけていた。

それには居城も読谷一帯が一望できる座喜味の高台に移すことであった。


にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。