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中山王 尚巴志 即位


尚巴志の冊封は即位して三年目に行われた。皇帝使者は柴山であった。

皇帝からの勅は、巴志の父・思紹の生前における聡明、誠実な人徳を賞賛し、巴志はその子であり、中山王を継がしむ。というもので、明国皇帝より国王の王冠と皮弁服が贈られた。

巴志は同年謝恩使を派遣し、成祖の万壽聖節を祝す使者を派遣した。

しかし、そのとき成祖皇帝は崩じ、かわって宜宗が皇帝に即位していた。

巴志は早速、使者を北京へ派遣し、また宜宗皇帝へ方物を献上し、北京への往来が頻繁に行われた年であった。

同年だけでも四度、進貢使が派遣された。

そして新皇帝から王爵が贈られた。

そのときも皇帝使者は柴山であった。柴山は琉球の人々の素朴さに心から親近感を抱いていた唯一の皇帝使者であった。

柴山はその後も、幾度か来島する機会をつくり、私費を投じて大安禅寺や千仏霊閣等を建立し、仏教文化の高揚につくした。

そして中国と沖縄の親密な友好関係の橋渡し役をつとめた人物であった。



巴志 冊封申請


巴志が懐機の影響を受け、道教の「おふだ」を求めるよになったのも、そのころからと推測される。

国政の相談は懐機の助言に負うところが大きかった。懐機は顧問として長年、巴志の相談相手であった。

父亡き後、従来にも増して懐機に全面的な強い信頼を寄せていたことであろう。

巴志は1422年、父王の後を継いで中山王に即位した。巴志51歳。

泰文は懐機によって作成され、明国皇帝への使者は翌年秋、派遣された。

「我が琉球国分かれて三と為るもの百有余年、戦止む時なく、臣民塗炭に苦しむ。

巴志悲嘆に耐えず、此れが為に兵を発し、山南山北今太平に帰す」

巴志は、三山を統一したことを報告し、方物を献上した。

皇帝から

「汝琉球国分れ人民塗炭すること百有余年。近爾が義兵復た太平を致すと。

是れ朕が素意なり。

今より以降終を慎しむこと始の如く、永く海邦をやすんじ子孫之を保せよ。

欽めや、故に諭す」 (『沖縄一千年史』より)



父母の恩愛


巴志の父・尚思紹は1421年に没した。在位16年であった。

思紹は佐敷按司のころから大親として領民から慕われてきた世の主であった。

巴志の行動の裏には人徳に恵まれた静かな父の存在がおもり役として大きな影響を与えてきたものであろう。

巴志の敏速果敢な行動は、強い按司を志向する父の願望が幼少のころから助言として、巴志に影響を与えてきたものである。

苗代大親から佐敷按司となった父は、巴志が21歳になると按司の職務を任せ、按司として修業させてきた。

そして一族の命運を左右する戦闘には、父も行動を共にし、大里城攻略、中山武寧打倒等、巴志の背後に立つ助言者として、また、大按司として役目を果たしてきたものであった。

そして母は、巴志が行動を起こす度に祝女として何日間も祈願をし、武運長久、一族の繁栄、領民の平安等を祈ったことであろう。その母もすでに世を去っていた。

父母の墓地は「佐敷ようどれ」として佐敷城近くに造られた。その後、1764年、佐敷村字佐敷に移葬されたと伝えられている。

現在、自衛隊知念分屯基地内に「佐敷ようどれ」として石碑は保存されている、といわれている。

墓内には巴志の父母と家族9人が祀られている、伝えられている。



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