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今帰仁城(北山)落城


攀安知に従い、中山軍に切り込みをかけた17騎のうち、10騎は討たれ、7騎は攀安知に従って城内に駆け戻ると、城内で応戦していた味方は、四方八方に逃走し、死体があるのみであった。

攀安知が二の丸に近づくと、平原が待ち構えて大喝して叫んだ。

「なんじ無道なり、我中山に降る」

攀安知は謀反に気づき、形相を変え斬りかかり格闘となる。斬り合い数合の末、平原は刺し殺された。

攀安知は傷だらけの体を引きずり、火の海と化した本丸を眺め、日頃守護神として信仰していた霊石の前に行き、

「予は今死す、汝あに独り生きんや」 というなり、名刀千代金丸で霊石を十文字に切りつけ、志慶真川に投げ捨て、脇の小刀で自害して最期をとげた。

北山城はついに陥落した。

北山城と称して以来、三代91年にしてその栄枯衰勢の歴史は終わった。

名刀千代金丸は、その後、志慶真川下流の親泊村の東方の水たまりで夜な夜な怪光を放っているのを伊平屋の漁民が見つけ、持ち帰ると光が止まったと伝えられている。

名刀であることを知り、後の国王に献上したもので、現在でも国宝級として保存されている。

巴志は、攀安知王の婦人、今帰仁大アムシラレとその子、外間子(三男)、喜屋武子(四男)、虎寿金(五男)を捕虜にして帰り、母子四人を弟の美里按司の居る大里城で養育させ、

成長の後、外間子と喜屋武子は佐敷間切津波古村に移住させ、五男虎寿金は美里按司の娘婿として、南風原間切兼城村で兼城按司として優遇したと伝えられている。




戦略と戦術


巴志はかつて大里城攻落や、中山制覇も一日でなしとげた。しかもわずかの兵力であった。

しかし、今回は琉球国、中山の覇者として、三千500余の軍勢を率いての北山討伐である。

勝敗は分かっていたとはいえ、攀安知は北山王として後世に恥を残さないためにも城と討ち死に覚悟での籠城である。

三月16日の朝、平廊門と志慶真門での戦闘はいつものように繰り返されていた。

城内では攀安知が檄をとばし指揮をしていた。

北山で剛勇の武将として知られる平原は、何くわぬ顔をして攀安知に近づき、

「久しく出て戦わざれば、敵、卑怯といわん、王と臣と交互に出て戦わば必ず敵を破らん」と進言すると、

武勇で自信のある攀安知は、平原の意見に我が意を得たりとばかりに同意し、平原に城内を任せ、兄弟一族17騎を従えて城門を出て、中山の前衛に襲い込んでいった。

巴志にとって好機到来である。決戦のときが来た。巴志は野戦に誘いだすため前衛を徐々に後退させた。

攀安知が長年中山打倒に備え武術の訓練に励んできたのは、この日のためであろう。中山軍と正面から刃を交わすことは彼の望みであった。

攀安知の勢いに押され、逃げ遅れる雑兵を突き刺し得意であった。深追いに気づき慌てて城内に引き返そうとしたとき、城内は火の手が高々と燃え上がっていた。

志慶真門を封鎖していた越来按司、読谷按司護佐丸の率いる中山の精鋭は、平原の内応によって城内に殺到した。大内原の後宮や本丸は火の海と化していた。




新たな作戦


戦闘は三日間続けられたが、北山城は陥落せず、中山軍の負傷者は500人にも達し、また城内の北山軍は200人が死傷し、生き残った者も全員傷だらけになりながら必死の応戦であったと伝えられている。

巴志は攻撃を開始して3日目、各武将を集め新たな作戦を指示した。

北山の武将・平原(たいはら)に内応させるため金品を贈り、利害を説いて説得することであった。

城内には、西南の城壁から夜間侵入する方法がとられた。

北山城の城壁は自然の絶壁を利用し、そこに内部から石を積み上げて作らせたもので、人の近づくことのできない要塞である。

よもや西南の城壁から敵が登ってこようとは敵も味方も考えなかった場所である。

敵にとっても油断の場所であり、盲点の場所といえた。

命がけの決行である。この役は羽地按司が引き受けた。

春の夜の野営は昼間の激しい戦闘の疲れから、夜更けともなれば敵も味方も静まり返っていた。明日はどのような戦闘が待ち受けているか知るよしもない。

その夜、城内で二人の人影がひそかに会っていた。羽地按司が平原と会っていたのである。

そして夜が明け、小鳥や野鳥の鳴き声が北山の山々から聞こえてきた。



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