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交易立国を国是


交易立国を国是とする巴志にとって、本土交易だけでは海賊による犠牲が多く、どうしょうもなかったことであろう。

そのため琉球商船は堺入港をあきらめ、博多へ入港するようになっていた。

南方産の貴重な物資の輸入が止まって困ったのは、幕府や堺商人であった。幕府は島津家に琉球航路の海賊船取り締まりを命じたが、宝物を満載している琉球商船が海賊から難を逃れるのは容易なことではなかった。

そのためか堺商人のなかには船を沖縄まで出すようになり、那覇港は日本商船の出入りが活況を見せるようになっていた。

朝鮮への使者派遣等も日本商船に便乗させて派遣したほうが安全であった。特に対馬船に便乗させるのが最も安全であった。

巴志は朝鮮への使者派遣に、対馬船に二名の使者と数名の随員をつけて、1424年、派遣している。

瀬戸内海は海賊団の根拠地であったし、倭寇は対馬、壱岐、松浦等を拠点にして朝鮮半島から中国大陸沿岸を船団をなして略奪をほしいままにして猛威をふるっていた。

琉球国の三山統一をめざす巴志は、交易立国を国是とし、中国との朝貢を中心に中継交易を発展させるため、倭寇の襲撃をさけながら、近隣諸国と交易を通して親善、友好を重んじ、平和で秩序ある「守礼の邦」の王国建設をめざしていた。





瀬戸内海の海賊


倭寇は対馬、壱岐、松浦の島々を根拠地として大陸沿岸を荒らし、その近くを航行する琉球商船も彼らに見つかったが最後、えじきにされたとこであろう。

倭寇は大陸沿岸で略奪する海賊であるが、瀬戸内海もまた海賊が横行する海賊団の拠点であった。

瀬戸内海は古くから海上交通の大動脈といわれる要所であり、そこには河野水軍、熊野水軍と呼ばれる海賊団の拠点があり、それに加えて塩飽海賊が入り乱れて海賊団の支配する天下であった。

ときの室町幕府は足利将軍の支配する世であったが、大名、公卿や寺社、それに地方の豪族は勢力争いと、権謀術数の駆け引きが入れ乱れ、世は戦国乱世であった。

大名や有力な豪族のなかには海賊を味方にして勢力拡大に利用していた。

室町幕府は熊野水軍の一部を味方にし、瀬戸内海航行の商船の保護を命じた程であった。その見返りとして櫓一梃につき100文のカネを徴収する権利を与えていた。

海賊に海上の治安を任せていたというものである。

そのころ瀬戸内海を航行した朝鮮の使節の記録によると、「朝鮮の船は、どうせ大した金目のものは持っていないから、襲っても仕方がないが、後から来る琉球船には宝物が沢山載せているから、琉球船は、すぐ襲われていた」と伝えられている。



朝鮮で略奪する倭寇


琉球商船はマラッカ、シャムなどの南方まで出かけていた。

そして北は朝鮮とも交易し、堺や兵庫、博多等にも出入りし、中国との貿易を中心とした中継交易であった。

ところが当時、朝鮮半島から中国沿岸にかけて倭寇が猛威をふるっていたため、商船にとって海賊は、海の狼といわれ最も恐れられていた。

倭寇は初めのころ九州の壱岐、対馬、松浦等の三島の民が主であったといわれていた。だが、その後、勢力は次第に拡大され、略奪範囲も広範囲に及ぶようになっていた。

朝鮮の記録では、毎年数回以上、多いときは十数回も襲ってきたと伝えられている。

倭寇は200隻から多いときはそれ以上の船団で朝鮮を襲い、稲やキビ等を刈り取って略奪し、米、食料など、その他、金目のものは手当たり次第奪い、農民や住民をさらって捕虜として連れ帰ったようである。

さらわれてきた朝鮮人は豪族の手に渡り、朝鮮へ送還された。豪族らは「これは海賊にさらわれてきた貴国の住民である。他国で奴隷にされているのを哀れと思い、買い戻してやった」といって送還し、朝鮮皇帝から謝礼として捕虜一人あたり木綿20反を礼金として受け取っていたと伝えられている。

豪族のなかには配下の海賊を利用し、礼金目当ての商法をする者がいたようである。

朝鮮側では内情は知ってはいるものの、ことを荒立てることは得策でないと判断してか、捕虜を送還してくる豪族に礼物を献上し、味方にすべく優遇していたようである。



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