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尚巴志王統樹立 


中山を掌中にしたばかりの巴志にとって、前王の不手際に続き、今度は進貢使の明国官兵殺傷事件で、波乱に満ちた船出であった。

唐栄の指導のもと謝罪使を派遣し、外交上ことなきを得たものの、巴志にとっては中山経営が順調に軌道に乗るか否か重大な時期である。

巴志は如何にして冊封をとり行うか最大の課題であったに違いない。実力で中山を制覇しても王位を証す王印、冠服が与えられ、また朝貢による貴重な交易品が大量にもたらされて、はじめて世の主として国王の権威が誇示できたからである。

丁度、そのころ唐栄に中国から来島した懐機という人物がいた。彼は唐栄に政治顧問的な任務で来島していたようである。

進貢に伴う国書の作成、起案文等は彼の手によるものと思われた。

巴志は彼との出会いによって、いろいろな面で大きな影響を受けた人物である。中山経営における政治顧問として懐機の役割が重要さをましてきたのもそのころからであった。

巴志の父・思紹の冊封について懐機の助言と協力に負うところが大きかったはずである。

武寧が冊封を受けて3年後、武寧の世子として襲爵が認められた。

世子としての襲爵、政治的粉飾であろうが、世の主として領内の繁栄をもたらすため大国の恩恵のもと、朝貢を行なわなければならない。そのためには礼儀を重んじる大国の心証を害してはならないということから、父子襲封という方法がとられた。

このときの冊封は明国に進貢使を派遣して行われた。巴志の父、思紹は中山王として襲爵が認められたものである。

尚巴志王統の樹立が明国から公式に認められた冊封であった。



明国皇帝の寛大な措置


中山では進貢使の派遣の祭、国書に武寧の世子として進貢することにした。これは武寧が察度の晩年、世子の名で進貢していた前例があったので、その方法を用いたのであろう。

ところがそのころ、福建省で進貢使一行が明国官船を略奪し、官兵を殺傷するという大事件が起こっていた。どのような経緯があったか不明でさるが、こともあろうに進貢使が相手国の官船を襲い海賊行為をしたとあっては国交上重大な事態である。

その事件は、武寧の最期のころのものか、巴志の父、思紹が中山王になってからのものか、はっきりしたことは不明であるが、年代的には巴志が中山を攻落したころと見られている。

明国では、その首領者を処刑し、残りの67人は送還させた。

巴志の父、思紹は成祖皇帝に謝罪使を派遣し謝罪したが、中山にとっては予想もしなかった不祥事であった。

中山経営は未だ軌道に乗らない矢先である。

その前年には、南山王の進貢使の一員が、明国に入国の祭、ひそかに白銀を持ち込み磁器と交易していることが発覚し、罪に処せられようとしているところ皇帝から釈放されたばかりである。

皇帝は「遠方の人利を求むることを知るのみ、何ぞ禁令を知らんや」といって釈放させたと伝えられている。

先進大国皇帝の寛大な措置である。

前年、中山王武寧のころ、宦官(かんがん)数人を宮廷に献上したところ、皇帝は、

「彼も亦人の子なり罪なくして之を刑す何ぞ忍びんや」といって送還させた。

昔、中国の宮廷の大奥では去勢した男が勤めていたといわれていた。彼らは希望して宦官になるものもいたようである。

武寧のころ、宦官数人が送り返されたとき、そのとき臣下曰く、

「之を還さば帰化の心を阻せんことを恐る。請ふ但だ敕を賜ひて其再進を止めよ。と帝曰く、

『諭すに空言を以てするには、事実を以て示すに若かず。彼れ媚びを献ぜんと欲せば、必ず将に継ぎて進めんとす。

天地は物を生ずるを以て心となす。帝王乃ち人類を絶つべけんやと』境に之を送還す」(『沖縄一千年史』より)




王位継承の準備


巴志は中山を制覇し、三山統一の拠点を築いた。

首里城は天孫氏によって開かれた支配者の居城であった。

天孫氏二十五代の思金松兼王は、当時、摂生をしたいた利勇に毒殺され、天孫氏は二十五代で滅びた。

利勇は間もなく浦添按司尊敦に討伐された。

そのとき尊敦は50余騎で首里城を襲い、利勇を滅ぼし、即位して舜天王となったものである。

首里城は、那覇港や泊港を眼下に見下ろせる高台にあり、島の浦々まで支配する実力者の居城としてふさわしい城(グスク)であった。

良港を有する者が天下を制する、といわれた時代である。

巴志は中山を制覇し、父を王位に就かせ、自らは補佐をつとめた。中山経営を軌道に乗せるため、領内各按司に協力要請するとともに、唐栄との接触が急務であったといえる。

進貢に対する国書の作成、通訳、同行随員等、唐栄の協力なしに進貢はできない。

そして中山の王位継承をどのような形で明国に表明するか、最大の難問であったに違いない。

中山の実権を掌中にしても明国との交易なくしては国王の座は維持できない。

先ずは進貢の実績をつくることが先決であった。




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