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中山王武寧 冊封


冊封は4〜500名の一行が7、8ヶ月間滞在するので、王府は冊封使一行受け入れ準備に、数年前から食料調達などの準備にとりかからねばならなかった。

武寧のころは冊封の最初であったから、それほど大がかりでなかったようである。

だが、その後冊封が定着してくると、王府では沖縄にいない羊や鳥獣なども取り寄せ、農家で飼い、魚介類は一定の場所に集めて養殖したり、また果樹は2、3年実を結ばせないように根回りを肥やしたりして、冊封の時期に合わせるように工夫が行われていた。

冊封使一行受け入れ準備に苦心もあったであろうが、冊封は国王にとって一世一代の祭典であり、国をあげての行事であった。

冊封は進貢を意味するものであり、その利益は莫大であったこそ、王府にとって冊封は欠かせない国家行事であったのである。

しかも進貢のための運送経費や帰航の費用もすべて明国から援助され、大型交易船も贈与されるという援助つきである。

国王にとって冊封は交易によって富強になることであり、大国の権威を背景に勢力を張るために名を捨てて実を取ることであったといえる。
中山王武寧の冊封は1404年に行われた。琉球王国における冊封の始まりである。

同年、南山王、汪応祖も冊封を受けた

北山王攀安知は前年、明国で冊封を受けていた




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冊封使  歓待


皇帝は内閣大学士、幹林院掌院、都祭院、禮部堂官等の各機関に選考委員会を出させ、文武両道兼備の人物が冊封使に選出され、皇帝から任命された。

冊封使一行を乗せて来るお冠船は、頭号船と二号船の二艘で、正史、副使、随員等は頭号船に乗り、二号船には護送兵が分乗しての来島であった。

船の大きさは、46メートル、幅11メートル、高さ4メートル、船室23室を備えてあったというから、かなり大型帆船である。

お冠船が那覇港沖に見えると、待機していた大小多数の船が出迎え、埠頭の迎恩亭では国王の使者及び百官総出で迎えた。

一行の宿舎は天使館が用意され、7〜8ヶ月間滞在した。

来島、帰国とも季節風を利用していたため、来島は6月ごろの南風に乗って来る場合が多く、帰航は新北風(みーにし)が吹きはじめる11月ごろが多かった。

冊封使の任務は、先王への諭祭に参列し、皇帝からの祭文、祭品、香典等がささげられ、そして冊封の式典の後、盛大な祝宴が催され冊封使一行の歓待が行われた。

祝宴は諭祭の後に行われる対面の宴が第一宴で、冊封式典後の第二宴が盛大に行われた。

その後、帰国するまで中秋の宴、重陽の宴、餞別の宴、拝辞宴、望舟宴等7宴が催された。


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冊封使一行


冊封使一行は来島すると、先ず前国王の慰霊の式典に参加し、皇帝から先王への供物や祭文が捧げられ、廟所での式典の後、城内で冊封の式典が催されるものであった。

皇帝から武寧への詔書に曰く、

「聖王の治萬邦を協和し、継承の道常典に率由す。故の琉球国中山王察度、命を皇考太祖高皇帝に受け、東藩に屏と作り、克く臣節を修す、朕が即位におよんで率先して誠に帰す。今既に没す。

爾武寧は乃ち其世子なり。特に爾を封して琉球国中山王と為し、以て蕨の世を承けしむ。

帷儉を以て身を修め、敬を以て徳を養ひ、忠を以て上に事へ、仁を以て下を撫し、克く滋の道に循と海邦に、鎭と作り永く世祚を述べよ。欽め哉」(『沖縄一千年史』より)

冊封使一行は随員、護送兵を合わせると最初のころは200名程度であった。その後、規模は拡大され、4〜500名が普通であった。

当時、中国沿岸で海賊が出没していたため、護送の護衛が必要であったのであろう。

皇帝の使者として派遣されてくる冊封正使は、将軍提督に準じた制服が認められたというから、その人選は中国でも古来から最も慎重に選考されてきたと伝えられている。



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