カスタム検索

沖縄で最初の爬龍船


大陸との交易は沖縄を潤し、大陸文化の影響で歴史的遅れをとり戻しつつあった琉球王国にとって、「幸」は海の彼方からもたらされてくるものであった。

ニライカナイを信仰する島人にとって、海神祭を行う意気込みは格別のものがあったはずである。

爬龍船行事は、那覇、久米村、泊の三か村対抗で行われるが、競漕に先立ち豊見城の「いべ」まで揃って行き、祝女の祈願を受けた後、各種競漕が海の男たちによって展開された。夜は宴席がにぎわい、五月四日に向け、三日三晩祭典が続けられた。

音楽や舞踊もそのころから民衆のなかに徐々に広まってきたことであろう。

爬龍船行事で唐栄と汪応祖の緊密化はさらに強まり、祝賀などの行事も大里城より、大きな庭園を有する風光明媚な豊見城城で催された。

豊見城の城(グスク)は緑豊かな樹木に恵まれた清く静かなところで、グスク側の漫湖には各種の野鳥が集まり、野鳥の憩いの場でもあった。

その景色は人々の心を和ませるくれるものがあった。

河口には那覇港と浮島が見え、唐栄とは同じ湖水に面しているという親近感もあったはずである。

汪応祖は明国に留学した事もあったので、学識のある人物として唐栄からの信頼も厚かった。




汪応祖と唐栄


汪応祖は豊見城城主のころから唐栄との関係緊密化に力を注いでいた。

父・汪英紫が島添大里按司として明国に進貢しているころからである。

唐栄は中国の領事館の役割的な果たしていた。各按司の朝貢手続きは唐栄の協力のもとでなされていた。

そして南方諸国との交易も同様であった。だから按司にとって唐栄との往来が自由にできる交通を有しているか否かは重大な問題である。

その意味で北山は唐栄との往来に中山領内を通過せねばならず、大きな制約があったはずである。

しかし南山は漫湖沿いの豊見城から小舟で自由に往来ができたので、中山と対等に唐栄と交渉ができた。

特に汪英紫が島添大里按司として進貢していたころ、豊見城城は大里按司の出城として重要役割を果たしていた。そのころ豊見城城主は汪応祖であった。

汪応祖はかつて南京に留学し、明国の礼法にも明るく、唐栄の程復等の要人とのよしみも厚かったことであろう。

浮島と豊見城城は共に漫湖と国場川に隣接し、目と鼻の先である。

汪応祖が唐栄との関係をさらに緊密化させたのは爬龍船行事を定着化させたことも大きかった。

爬龍船行事は中国の江南地方で古くから行われている民族行事であるが、沖縄には三六姓の移住後、唐栄だけで旧暦の5月4日に行っていた。

その爬龍船を汪応祖が豊見城城主のころ正式行事として催すようになったものである。



にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。