カスタム検索

巴志 ターゲット狙い


大里城は馬天港を眼下に見下ろすとはいえ、高台にあり、領内の部落から離れた城であった。

だが、巴志の居城は馬天港の近くにあり、村の中の小高い丘で、馬天港を拠点に地の利、人の和に支えられた場所であった。

巴志は三山統一に向け、島打ちに動き出した。大里城を落とし、馬天、与那原港を拠点に海外交易を行い、島添大里経営ではずみをつけることであった。

巴志が大里城を攻略した翌年、中山王武寧と南山・汪応祖はともに冊封を受けた。

三山とも「世の主」の交代である。

「世の主」たちは、征服の野望を抱きながら登場し、勢力を張り対立を続けた。

南山の汪応祖の領内はよくまとまっていたが、中山はかつて察度のころのような強い結束はなく、武寧に対する有力按司の思惑はまちまちで足並みは乱れていた。

佐敷の鬼鷲の鋭い感覚は、各按司の微妙な反応を見逃さなかったはずである。

巴志は唐栄から信頼の厚い南山の汪応祖との決戦をさけ、足並みの乱れた中山に注目した。 



巴志、島添大里を併合


一族の興亡は按司の器量にすべてがかかっていた。按司の手腕の良否が一族及び領民の命運を左右していたといえる。

巴志は屋富祖を討っても、南山王、汪応祖がどう出てくるかわからない。下手をすれば一族の滅亡を意味するが、もし打倒に成功すれば南山の大半の実権は掌中にできる。

島添大里按司の実権、そして島添大里の世の主として、南山の大半の領主となることができる。

そして南山最大の交易港馬天は巴志の居城の目の前である。良港を有するものは天下を制することができる。地の利は良い。

巴志はひそかに屋富祖打倒に照準を合わせていたことであろう。

巴志は1403年、ついに佐敷、大里、知念、玉城など巴志に協力する同志で大里城を攻略し、島添大里併合に成功した。

巴志31歳のときである。

巴志の大里城攻略は、たんに大城按司の弔い合戦が動機ではなかったはずである。佐敷按司として実力を蓄えてきた巴志は、馬天港をめぐり、大里按司と対立か、服従か、避けられなかったはずである。

巴志は佐敷按司として勢力拡大上、島添大里併合は念願の課題であったに違いない。

そして最初の夢は実現した。




激動する南山


汪英紫は大城按司を滅ぼし、南山の実権を掌中にしつつあったが、間もなく病死した。

承察度王を追い出し、大城按司をつぶし、南山の領主としてはばからなかった。

南山の権力者、汪英紫が病死したのだから南山の動きは風雲急を告げてきた。

まず汪英紫の死を知ってか、朝鮮に亡命していた南山王察度が中山王に助けられて帰国したことである。

承察度は高嶺の居城・南山城に戻ってきたが、老齢のため名ばかりの南山王であった。

汪英紫の後、大里城には長男の汪応祖が豊見城城から移り城主となり、豊見城城には弟の屋富祖が汪応祖の後を受け城主となった。

ところが南山王、承察度は間もなく死亡した。承察度には嫡子がいなかったため、いとこの汪応祖が南山城に入り、南山王を継ぐことになった。

大里城は弟の屋富祖が城主となった。

屋富祖は大里城主になったものの、兄・汪応祖のような政治的手腕や統治力はなく、父・汪英紫のような強引さもなく、大里按司として島添の世の主としては頼りない存在であった。

この様子を佐敷の鬼鷲が見逃すはずがなかった。

汪英紫に祖母の家元・大城按司真武が滅ぼされ、一族はいずれ恨みを晴らさんものと耐え忍び、時節到来を待っていたのである。

そして汪英紫は病死したものの、嫡男の汪応祖は南山でも人望があり、唐栄でも信頼されている大物である。

手強い相手であったが、弟の屋富祖は問題でないと見たのであろう。

巴志は大里按司屋富祖打倒の機をうかがっていた。



にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。