カスタム検索

琉球史とのかかわり


 温故知新という言葉に親しみを持つようになったのは、自分の生い立ちや、祖先のルーツに関心を持つようになり、そして琉球史に興味を持つようになってからであった。

 それまでは「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という温故知新の言葉が、それほど身近に感じられるものとは思ってもみなかった。

 過去を理解し新しい事柄を再発見することは、日常生活においても味わい深い言葉であろうと思っている。

 その言葉との出会いは、自分の生い立ちを知るということからの出発でもあった。子供のころは親戚との交流の経験が乏しいこともあったためか、門中についてあまり関心はなかった。

 たまたま八重山出身者から親戚関係について聞かれたとき、郷里で知られている親戚のことを思い出し、そのことを話すことにしている。相手は親戚や門中の誰かを知っていることが多いからである。

 私の場合、姓が宮野であるから本土の出身と思われてか、よく出身地について聞かれることが多い。

 宮野に変わったのは二十代の半ばであった。変更した経緯については、省略して、ここではルーツを知る手がかりとして系図から、琉球歴史に興味を持った経緯を中心に述べたい。

 幸いにも門中の系図が親戚の家にあり、その系図を見ていると琉球史への興味が自ずから感じられるものであった。

 系図は昭和16年、伯父にあたる安村賢位が70才を記念して作成したものであった。彼は当時、石垣町会議員であったことが記録されている。

 私が誕生したとき、男の子であったので私の名前も系図に書いたと云われている。系図には男だけが書かれており、女子は一人も書かれていない。

 他の門中はどうなのか知らないが、当時そのような習わしがあったのかもしれない。私の名前も書かれているので、書き写したものを譲り受けることにした。

 その系図によると、門中は「夏林(かーりん)姓」と云われ、阿麻和利の乱で活躍した大城賢雄が元祖で、その子孫による一族で、賢の名が代々受け継がれている。私もその一人である。

 親戚の話によると沖縄本島では夏姓といわれているが、先島の八重山では林の一字を多く入れて夏林姓と呼ばれているとのことであった。

 大城賢雄の子孫と八重山との関係は、系図によると在番、仲本親雲上(ぺーちん)が八重山での最初の夏林姓の祖となっている。

 仲本親雲上は大城賢雄から数えて7代後の人で、当時、親雲上といわれていた。彼が在番として沖縄本島から八重山に来たものであった。

 仲本親雲上は八重山で4人の男の子をもうけた。その子孫が仲本家から分家して広がったと云われている。祖父の安村家も仲本家からの分家であった。

 夏林姓系図によると大城賢雄は、英祖王の次男、湧川王子の子孫で、大城賢雄までの系統が系図で明らかにされている。

 八重山の夏林姓系図では、大城賢雄の死後、賢雄から数えて四代までは記録がなく空白であるが、五代、儀保親雲上賢続から系図は明確に記録されている。沖縄本島の夏姓系図を調べれば、空白の部分は埋まると思われるが、課題として残されている。

 八重山に在番として赴任してきた仲本親雲上は儀保親雲上賢続の孫であった。

 私の祖父、安村賢叶は、在番仲本親雲上賢親の四男の系統で、続柄は嗣子となっているので、親戚から跡取りとして迎えられたようである。

 系図には続柄の他、役職なども書かれているので、それを見ていると、先祖のルーツが見えてくるような思いがする。

 また、夏林姓の系図によると、大城賢雄の先祖は恩金松兼王が一代で、英祖王やその子孫の湧川王子、今帰仁城主、伊波按司、榮野比大屋子など琉球史では馴染みの名前が代々続き、賢雄は一五代となっている。

 それらの名前を見ているだけでも古琉球への興味が親しみを持って身近に感じられてくるのを覚えるものであった。

 琉球史への興味は、このように門中の系図を見ることがきっかけであった。

 八重山の仲本家には大城賢雄が阿麻和利の乱で活躍した時の状況を伝える『夏姓大宗由来記』の原本が残されている。

 この由来記は、私が習作として自費出版した『沖縄の夜明け 第一尚氏王統の興亡』でも紹介した。

 「沖縄の夜明け」としたのは、察度王の時代に中国との交易が拓かれ、留学生を中国に派遣し、沖縄に文字文化がもたらされたこと。

 そして尚巴志によって三山時代は統一され、中国との交易を東アジアにおける国際的なものとして認知されるまで高め、大交易時代の拠点を確立したからであった。

 そのことは万国津梁の鐘銘で明らかなように、交易を国是とした平和な国造りを目標としていたことなどである。

 一方、尚巴志王統の時代には劇的な動乱が何回かあった。志魯・布里の乱もそうであるが、もっとも有名なものは阿麻和利の乱であろう。

 当時、大城賢雄は、武勇に優れ、戦に際しては鬼大城といわれる程の強者であった。そのことは『夏姓大宗由来記』で詳細に伝えられているとおりである。

 このように尚巴志王統のころ、激動の時代であったが、琉球国をまとめ、文字文化を発展させ、交易を国是とした国造りの基礎を築いた功績は大きいといえる。

 そのようなことから尚巴志王統興亡の時代は、琉球国の歴史のなかで新しい段階へ急速な発展を遂げた夜明けにふさわしい時代であったと思う。

 しかし尚巴志の功績は琉球史のなかであまり評価されていない。祖先を大切にする習慣はあるものの、琉球史に偉大な業績を残した尚巴志の墓が現在どこにあるのか知っている人は少ないだろう。

 尚徳王の代までは首里城近きに天山陵として大切にされていたが、金丸のクーデターの際、破壊されるのを避けるため子孫によって秘かに読谷村の伊良皆(国道58号線沿い)の森の茂みに移されている。

 そういうわけで尚巴志王統の興亡に視点をおいてまとめたものであった。

 『尚巴志王統の興亡』をまとめるとき、首里城の起源について、どう解釈したらいいのか、そのころからの疑問であった。

 伊波普猷や東恩納寛惇は、浦添城から首里城に遷都したという遷都説である。
 しかし眞境名安興・島倉龍治共著の『沖縄一千年史』は、首里城が舜天以来、歴代国王の居城であったと述べている。

 内容は正史の中山世鑑や球陽と同じである。ただ論証はなく二行程度しか記述されていない。

 その他の沖縄の歴史書は、ほとんど皆、浦添からの遷都説をそのまま受け継いだと思われるようなものが多い。

 だが『首里城の起源を探る』で述べたとおり、正史や『おもろ』をよく検討してみると浦添からの遷都はなかったという結論を得ることができた。

 そのことの検証を自分なりに試みたものである。
 遷都説を唱える伊波説や東恩納説とまったく異なるが、両歴史家の書物はテキストのようなものであることに変わりはない。ただ遷都説に関する限りは見解を異にするものであり、また、その他各説においても疑問に思われる説は是々非々の立場で検討されるべきであろうと思っている。

 『首里城の起源を探る』というテーマまで辿り着くことができたのは、系図から琉球歴史に引かれ、興味を持ってきたことがきっかけであった。

 そして私にとって温故知新の「故きを温ねて新しきを知る」ということは、琉球史との関わりを一層強める支えとなり、今では身近に感じられる言葉の一つとなっている。






にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。